冬のクワガタ(5) [空想中野日記]
5.山頂の昼食
山頂の蝋梅は三分咲きほどだったので、草子さんを大いにがっかりさせたけど、近づくと花の香りがただよってきて、満開の時ならばさぞや、と思わせた。黄色いビーズのようなつぼみが、今にも咲きそうに枝の先々を彩っているのも、風情があってよろしい、というような意味のことを草子さんはつぶやいて、大きく開いている花に近づいては匂いをかいだり、花びらの中をのぞきこんだりしていた。
梅園わきの枯れ草の上に、草子さんがレジャーシートを敷き始め
「さて、お弁当です」
と、リュックの中からタッパを三つにコッフェルとストーブまで取り出した。
「お弁当も作っていくって言ったでしょ。忘れた?あ、当たり前か」
と一人で納得し、てきぱきと用意を進める。口にチャックの付いたビニール袋に、切られた野菜が入っている。
「これとベーコンでコンソメスープ。あと食後のコーヒー」と言いながら、タッパを開ける。
「やっぱり基本は、おいなりさんとかんぴょう巻、から揚げに玉子焼きでしょう。それにサラダ」
「いつも宮さんの店で食べてるものと違いますね」と笑うと
「あれ、これじゃ飲めない?」とリュックから缶ビールを取り出した。
冬の陽に照らされた長瀞の町と荒川が光って見える。真っ青な空に秩父の山々が映えている。葉を落とした木々に埋め尽くされた山肌が「冬の暖かい日」を思わせる。太陽が気持ちいい。二本目の缶ビールのプルトップを起こした。
「いい眺めですね」一気に半分近くを飲む。
「おや、素直。沢野さんだったら『観光地なんだから景勝地で当たり前』ぐらいのこと言いそう」
おいなりさんの油のついた指をなめながら答えた草子さんも、ぐいっと缶ビールをあおり、立ち上がった。
手近にあった和蝋梅の花を再びつついたり、匂いをかいだりし始めた。
「『おっとり刀』ってどういう意味かな」と素っ頓狂なことを言い出すので
「『おっとり刀で斬りつける』ってやつ?」
「『駆けつける』よ」
「だって刀って斬るためにあるんでしょ」などと間の抜けな受け答えをしてしまう。
「この花びらって油紙みたいね」顔を花のすぐそばまで近づけて草子さんが言った。
そうしている間も玉子焼きを食べ、ビールを飲む。たまに吹く風が気持ちいいくらいだ。
「この前、宮さんの店でテツヤさんに会いましたよ」
テツヤというのは、やはり宮さんの店でなじみになっている院生で、よく彼女と二人で飲みに来ている。
「へぇ、しばらく会ってないなぁ。ま、ヤツに会うとおごらされるから会わなくていいんだけど」
から揚げをほおばってビールで流し込む。
「リエさんと別れたそうですよぉ」少しおどけた調子で草子さんは言った。
「あらま。今度おごって励ましてやろう。彼の性格なら、冗談でも深刻な事態にはならないだろうから」
実際、彼と飲むのは楽しいので、金もないようだし、おごるのは大した問題ではない。そんなことより、宮さんの店でみんなと飲んでいることが楽しいのだ。
「深刻ぶるのはキライ」唐突に草子さんが言った。
「……って言うこと自体、深刻ぶってるようでいやよねぇ」と、やはりおどけた調子で言った。
「自家撞着って言うんですよ。そういうの」
帰りがあるので、次の缶を開けようか迷う。「もの知りねぇ」そんな言い方をして、草子さんが新しい缶ビールを開けるので、やっぱり飲むことにする。
とてもいい気分。景色はいいし、ともかくデートでなのである。
「こんなふうに十年経っても、みんなと飲んでいたいなぁ」独り言のように言うと
「そんなの無理だよぉ」と草子さんは少し笑った。
(了)
冬のクワガタ(4) [空想中野日記]
4.観梅へ
デートである。昨日、草子さんから電話があった。
「なんで、番号を」少々面食らって聞くと
「先週、教えてもらいました。やっぱり覚えてないんですね」
こういういきさつらしい。どういうわけか、花見の話になり、じゃぁ哲学堂公園で、宮さん花見用の弁当作ってよ、などと盛り上がった。四月じゃ、まだ先だなぁ、とりあえず今どこかに行きたい、草子さんが言い出した。梅も、もうちょっと後だし……蝋梅!蝋梅にしましょう。いい時期でしょ?
こんな寒い時期はイヤ、とゆかりさんがぬける。宮さんは店があるから、近い所ならいいんだけど、といった具合。
「沢野さんは『それがいい』と大賛成でしたよ」
記憶がないのでふんふんなるほど、とうなずくしかないけれど、賛成に「大」をつけたのは草子さんの創作だろうと思う。
ともかくデートである。だから、土曜日のこんな時間にもう起きているのだ。
秩父鉄道の長瀞駅に着いたのは九時半を少し過ぎた頃だった。宝登山頂にある、ろうばい園に行くのである。ゆっくり昼頃到着するように来ればいいものを、こんな時間になったのは、花を観賞するのは午前中の光が一番であり、この時期の午後のねぼけたような光では興ざめだという、草子さんの主張によるものである。そのわりに、ここに来るまでの空いた電車の中では、低山ハイクにしては大きめのリュックを抱えた草子さんは、ぐっすり眠っていた。
黄色地に「ろうばい園」と、黒く染め抜かれたのぼりを、道の両脇に見ながら、ふもとの神社まで続くまっすぐな参道を歩く。大きな鳥居をくぐりながら
「閑散としてますね。みやげもの屋もみんな開いてないし」と言うと
「すがすがしいでしょ」などと、ゆかりさん同様やはり頓着せず答えるのである。
「沢野さん、こっちですよ」と草子さんが手を振る。
ふもとから山頂までロープウェイで五分だ。どうやら別にある登山道の方を歩きたいらしい。
「ロープウェイ使わないんですか」一応聞いてみる。
「プロセスが大事だから。一時間ほどですよ」と言って笑顔で屈伸などをしている。
見れば出で立ちこそいつもの草子さんだけど、足元はしっかり登山靴を履いていた。
切り通しの斜面から大きなアカマツの根がのぞく。ドンドンドンと遠くで三発花火があがる。この日は寒気も緩み、風もなく暖かで、歩いているうちにうっすら汗をかいてきた。草子さんが立ち止まり水筒から水を飲む。
「何?なんだろう」
「なんですか?」
「しっ!」言われるままに黙り耳を澄ます。
ギー、ギー、ギー、と軋むような音が聞こえる。すぐ近くだ。ギー、ギー、ギー。
「あっ、これ」朽ちかけた(いや朽ちているのか)大木が、倒れ際にとなりの木によりかかり、そのままになって立っている。風に揺られてギー、ギー、ギー、といくらでも鳴る。
「木も死ぬんですね。当たり前か」
「そうです。人間で言えば大往生を遂げたってとこです」草子さんは、そこでもう一杯水を飲んだ。
「大きいクマ、小さいクマ、テッポー撃ったら、てんでに逃げたー」
突然、草子さんが大声で歌いだす。
「なんですか、それ」
「クマよけ。クマにこっちの存在を教えてるの。クマスズだとなんか頼りなくて」
「クマスズって、登山する人がリュックにつけてる鈴のこと?」
「そう。それから聞かれる前に答えるけど、この歌は今私が作ったの」草子さんはにっこり笑った。
「大きいクマ……」口を「あ」の形に開けたまま草子さんが黙った。左に曲がっていて先の見えない登山道の影から、下山して来た人がひょこっり現れたのだ。
「だいじょうぶですよ。こんなとこにクマなんか出ないでしょ」
「分かってますよ。雰囲気を味わいたかったんです」と、やっぱり笑顔で答えるのだ。
(続)
冬のクワガタ(3) [空想中野日記]
3.居酒屋にて その2
「えっ、そうだったんですか」つい口を出してしまった。
二人と宮さんがしゃべっている。他に客はいない。
「そうよ。知らなかった?宮さん言わなかったの?」
ゆかりさんが一つだけ残っていた山かけのまぐろを口に放り込む。
「そんなこと言いませんよぉ」
宮さんは、仕事が一息ついてから飲み始めていたビールをごくりと飲んだ。
二人ともバツイチ。今時、めずらしくもないだろうけど。
「草子なんか、十年もしてから別れたのよ。なんか中途半端」
「ゆかりさんは二年でしょ。早過ぎ」
二人の間では頻出する話題らしく、掛け合いのようである。
新しく作ったお湯割りをコチンとぶつけて、二人とも一口飲んだ。ふぅ、と息を吐き草子さんは「何事も十年続ければ大したもんだ」と妙にかしこまった口調で言い「モズク」と短く注文した。「……と、父が申しておりました」その後、小さくつぶやいた。
なんとなく「今の仕事も十年たつなぁ」と独り言のように言うと、三人に驚かれた。
「じゃぁ、三十二,三?老けて見えるわねぇ。十も下」と、ゆかりさん。
「私なんか年上かと思ってました」と、こちらは草子さん。
「そう言えば、この前沢野さんが草子さんのこと『枯れ木』みたいだって……」と、宮さん。
「『枯れ木』じゃない『ススキ』って言ったんですよ」
「あらステキ」
「そういう返事でいいの?」
実際、草子さんには化粧っ気がまったくなく、よく見れば顔には相応の年輪が刻まれてはいるけれど、洗いざらしのTシャツのような風体は、それも含めて「枯れた魅力」といったものがある。そのようなことを考えたが、口に出すのはやめにして、ロックグラスを持ち上げると空いていた。もう何杯目か分からない芋焼酎ロックを作りながら、イカンイカンと思い始める。きっと目が覚めたら、翌朝で自分の部屋で寝ているのだ……と、今考えていることも覚えていない。
芋焼酎ロックをスイスイと作り、スイスイと飲む。とてもいい気分。このいい気分を覚えていないのもさびしい。こういう気分は、きっと酒を飲んでいる時間の中にしか存在しないのだ、などと思考が迷走を始める。
ゆかりさんが、あははと笑っている。草子さんも、ふふふと笑っている。「いいんじゃないの」と宮さんが相槌をうつ。うんうん、そうだねそれがいい……
(続)
冬のクワガタ(2) [空想中野日記]
2.居酒屋にて その1
二杯目の芋焼酎ロックを飲み終わる頃、入り口のがらり戸が開いた。
「いらっしゃい」「ら」にアクセントのある発音で宮さんが応える。
「こんばんは」
入って来たのは、ゆかりさんと草子さんだった。たいてい二人でこの店に飲みに来ており、何度も顔を会わせている。
カウンターに二人並んで腰掛け、「何にします」と宮さんが聞く前に
「串焼き盛り合わせ、まぐろ山かけ、それとツナサラダ」ゆかりさんが、おしぼりを受け取りながら注文する。
「あと、お湯割りのセットちょうだい」と言い、手をふく。
一度腰掛けた草子さんが立ち上がり、麦焼酎のボトルを棚から取る。
「草子は?」早くも一本目のたばこに火をつけたゆかりさんが聞く。
「よく、まぁそんなに入るなぁ」と感心する草子さん。
「和食は別腹だから。和、洋、中、甘い物と四つあるのよ」ゆかりさんは平然と答えて、勢い良く煙を吐き出した。
こちらを見た草子さんが、(牛か!)と口の形だけでつっ込んだ。目元が笑っていた。
「一軒目はどこだったんですか」三杯目の芋焼酎を作りながら聞くと
「中華。紹興酒もたくさん飲んだし、点心みたいな軽いものじゃなくて五目焼きそばとか、エビチリとか……」
「沢野君ごぶさた。どうしてたの」
ゆかりさんが草子さんをさえぎって割り込んできた。
ここに来るのは月に一、二度ほど。半年くらい来なかった時もある。それでも十年通っていると、顔なじみになるものだ。
「いろいろ。仕事とか……」言う間もなく
「なになに、何読んでるの」と相変わらず頓着せず会話を進める人である。
「『夏への扉』」
「何、松田聖子の?」
「そう。この本に触発されて作られた歌だっていう話ですよ」
「へぇ~」とゆかりさんが感心する。
草子さんが、こちらを見ていたずらっぽく笑っているので、一応共犯者的な笑いを返すことにする。
出来上がった串焼き盛り合わせが目の前に置かれ、ゆかりさんの関心は当面そちらへいってしまったので、「夏への扉」へ目を落とし、芋焼酎を啜った。
(続)
冬のクワガタ(1) [空想中野日記]
1.春の引越し
「北の窪地に川を臨む高台に住めば吉」などと言われた覚えがある。十年ほど前だったか。当時、つき合っていた彼女と、飲んだ帰りに勢いで寄った辻占で、数百メートルは続く飲み屋街の角々に数人いた。とはいえ、もうずい分記憶もあいまいであり、その彼女とも別れてしまったので、今や確かめようもない。中野区の新井に越して来たのは、その頃。そういえばここは、その占い師によれば吉方なのか、と思ったりした。意識してはいなかったけど。
引越しは春で、だから中野通りの桜並木は満開。少し盛りを過ぎた頃で、忙しく花びらを散らしていた。桜並木から、西武新宿線の踏み切りを通過する電車を見て「花電車みたいだ」と思ったけど、「花電車というのとは違うな」と思い直した。
「湯豆腐お待ち」
注文していた湯豆腐がカウンターに置かれたので、読みさしの「夏への扉」から目を上げた。ずい分、唐突なことを思い出していたなぁと、ふとおかしくなった。とはいえ、居酒屋で飲みながら本を読み、とりとめもないことを考えるのは、よくあることだった。思索にふける、というほどのものではない。
空いた店内は適度な広さの、ほどよい明るさで、思索にふけるのもいいかもしれない、とも思う。豆腐をはしでくずす。この店の湯豆腐は木綿を使っているところが気に入っていた。豆腐を、しょう油と酒を煮詰めたタレにつけて口に運び、ジョッキに手をかけると空いてしまっていることに気づいた。
「氷ください。それと山芋千切り」
店主の宮さんに声をかけ、棚に置いてある自分の芋焼酎のボトルを取りに立ち上がった。宮さんは、氷とロックグラスを置くと狭い厨房で、長い手足をもてあますように大きく腰を割り、まな板の上で山芋をきざみ始めた。
(続)